ランダムな思考プロセス

逆張りオタクの備忘録

インターネットと可塑性。

 

僕は、インターネット黎明期の人間ではない。


かと言って、インターネット黎明期の存在自体をそもそも知覚しないほどの普及期かと問われるとそこはそうでもない。牛丼裁判やとっとこ公太郎を楽しむ傍でキッズgooを開いたり、ハイポ作ってみたをyoutube転載で見ていたような世代だ。
よく黎明期の人が「インターネットが面白くなくなった」みたいなことを言ってたりするけど、そうなんだろうなーと思いつつ自分が流入の世代であることから「それもインターネットだなー」と思ったりもする。

 

これはインターネットに限った話ではないと思うのだけれど、黎明期の面白さというのは能動性の高い人間が集まることではないだろうか。ある程度自分で試行錯誤しなければ動けない世界には自分で試行錯誤できる人間が集まるわけで、その過程からルールや法則を把握することもできるだろうしそれらが共有できれば更に楽しいのだと思う。

 

それからPCが一般的に普及しスマホが生まれインターネットが身近になって、受動的なユーザーが流入してくるとそりゃ面白くもなくなるだろう。接続すればユーザーが受け身のままインスタントに消費できるコンテンツが増えていくわけで、必要な前提が見えなければ共有する前提(ルール/法則)は失われる。

 

ここまでは黎明期と普及期の話であまりインターネットの話とは言えないわけだけれど、ではインターネットにおいてこの移行期に削がれたものは何なのかというのを今回は考えてみる。

 

 

結論を言えばこれだと思う。

「可塑性」、デジタル大辞泉にはこうある。

かそ‐せい【可塑性】

 
固体に外力を加えて変形させ、力を取り去ってももとに戻らない性質塑性

 

これは物理の言葉なのだけれど僕はインターネットに代入して、

「インターネット上で起きる物事に対して大きく反発/抵抗を起こさず己の解釈や行動によって柔軟に対応する能力」

と言い換えたりしている。

極端に言えばこういうことだ。 ↓

 

 

なぜそうなるのかと言うと、これはインターネットというプラットフォームの性質に関わっている、と勝手に考えている。 

・インターネットには物理的な領土が明確には存在しない。

・デジタルデータの出現により、情報は質量保存の法則を突破した。

無論これは嘘だけれど、概念的には大まかにこんな感じだ。

その昔、一つの文字には一つの木簡が必要だったし、紙が発明されても一つの文字には一枚の紙が必要だった。もちろん今だって文字のデータにはUSBやHDDが必要だし、データを賄う電力のために他のリソースが必要になる。だけれど大きく違うのは、その文字が独立していて媒体から乖離している点だ。一つの文字データに紐づけられるのは一つの木簡でも一枚の紙でも一台のPCでも無いわけで、リソースの許す限り無限に同質のものをコピーして別のPCに転送できる(概念的には)。

 

そういう空間に人間が入ってくるわけだ。この場所は地球とは違う。そりゃサーバーが落ちればサイトも落ちたりするから地球から解放されたなんて言わないけれど、人間が活動する領域を創造し拡張できるという点において地球とは大きく異なっている。要するに領土という概念が根本的な意味を為しにくい。

 

 

そしてこんな感じになる。ここではまず「べき論」 より実際どうであるかという点からみて欲しいのだけれど、僕らの身体はまず殆どの場合どこかの領土に属さなければならずそこでいろんな権利を国家に握られることになる。人を殺せば裁かれるわけで、そのとき抵抗すれば国家の暴力装置(警察)は僕らの身体を手荒く拘束するだろう。僕らの身体は国の領土へと「一つの文字と一枚の紙」のように紐づいているわけだから、そこに力を行使することができるし、だからこそ本来無法地帯である地球に僕ら人間は国家なんていう大きな規模で秩序を構成できる。現実的には、「僕らの命が領土に紐づいているから法が力を持つ」という側面が必ずあるだろう。

 

ではインターネットにいる人間の精神はどうだろうか。彼らの精神は「一つの文字と一枚の紙」のように、何かに紐づいているだろうか。

 

確かにインターネットの人間も生身の肉体を持っているわけだから、突き詰めれば国の領土に紐づけることは可能かもしれない。しかし、その効力を内部の隅々に至って行き渡らせることは困難を極めるだろう。何せ場所が違うのだ。インターネットで起きることを毎度毎度、国家の領土(身体のある場所)へと引っ張り出さなければならない。こうなるとこれは間接的な効力であって直接的な効力とは言い難い。ほぼ無限に広がる空間での無法を現実へと引き摺り出すことは、現実の領土で発生する無法を追いかけることとは大きく異なっているはずだ。

 

これが何を意味するかというとインターネットという媒体が、国家や国土が存在しない想定の「人間は本来何をするにも自由である」という考えを非常に反映しやすいものであるということだ。(国家はその上で秩序のための合意として自由を制限するわけだが。)だからインターネットとリバタリアニズムは相性がいいのだろうという考え方もできるが、話が脱線するのでここでは割愛する。

 

さて、ここで黎明期の話に戻るが自分の意思で能動性を持ってインターネットに入ってきた人間の多くはその試行錯誤の中で上記のインターネットの性質に気付くだろう。乱雑なインターネットには多種多様な人間がいて、善悪論は必要性の前にしか問うことができず、その必要性を規定する権力がそこには無い。「嘘を見抜けなければ掲示板を利用するのは難しい」といったことをひろゆき氏が言っていたと思うが、これはそういうことなのではないかと僕は考えている。自由で、時に猥雑なインターネットを「利用する」には、一歩引いてみたり状況に合わせて柔軟に対応する力、つまり可塑性が必要なのだ。良くも悪くも変わったものをとりあえず面白がるというインターネットの文化も、ここに根ざしている気がしなくもない。

 

 

受動的にインターネットを利用する人たちはこの性質に気づけるだろうか。多くの場合気づけないのではないかと思う。彼らにとっての現実は領土のある世界であって、受動的に与えらるインターネットの世界はその延長線上だと考えるだろう。受動的であるというのは、すなわちそういうことだ。現に、多くの人が思い思いの常識や善悪論をインターネットで振りかざし争っている。災害が起きれば不謹慎狩りを始め、目につく人間には全方位の公正を求めて、飽くことを知らない。そうなってしまえば、インターネット黎明期の人間や能動的にインターネットを扱う人間からすればそりゃ面白くないだろうなーと思う。

 

しかしこれは黎明期が良くて現在が悪いという話ではなく、インターネットという媒体の構造のお話なので、僕なんかはそれらを含めて「インターネットだなー」と思ったりするわけだ。性質に対して自覚のない人間が使えばそりゃ混乱するし、自覚のある人間が使えばなんとなくの雰囲気は共有できるかもしれない、くらいの話。それはそれでインターネット。

 

無論、そういったインターネットの性質が領土のある現実へと及ぼす影響はあるだろう。それはそれはもうたっくさんあることだろう。先述した通り、これはべき論ではなくて「どうあるか」の話なので、社会や秩序を前提とした場合に影響が生み出すであろう問題とは完全に別なのである。これは勘違いしないで欲しい。問題についてはまた別の記事で書けたら書こうと思う。FakeNewsとか。あれこそ構造の話だと思うのだけれど、多くの人は犯人探しをやろうとしてる。そりゃFakeNewsのフリーライダーはいるだろうけどそれは根本的な解決じゃないでしょ、とか。

まぁでも、僕は飽くまで思弁的にやるのが心地良いので具体的なところは難しいけど。

 

こんな感じかな。

黎明期から普及期にかけてのインターネットで大きく削がれたように思える可塑性の話。 

 

以上、「インターネットと可塑性。」でした。

 

では、また。