氷菓あれこれ②:「伝統ある古典部の再生」
さてさて、一話、「伝統ある古典部の再生」
あらすじについては各自見てくださいということで、とりあえず僕が気に留めた視点とそこから得た情報を羅列していこうと思う。
「色」
氷菓を見ていると色というのはやっぱりチラついてくる。この作品には独特の色使いがあるように見えるし、特定の色が特定の意図を持って使われているような感じも多々あるわけで、スルーはできない。
色調と世界観
まずは世界観を形作る基調としての色使い。一話だしこれは触れた方がいいかなと思う。
色使いというのは作品の印象を形作る大きなファクターなのでやっぱり欠かせない。
カラー調整
この画像にカラー調整をかけてみよう。
すると、元の画像より氷菓っぽくなる。
(露出というのは写真の明るさに関わるもので、絞りやシャッター速度とか撮影時に取り込む光の量で変わる)
露出が低い(光が少ない)だけで彩度は高いとか、コントラストで「影」が強調されるとか、セピア調と色温度で「古さ」や懐かしさを醸すとか。無論こういうやり方で描かれている訳ではないだろうけど、こういう色使いであるというだけで、色々テーマに結びつきそうである。
(灰色という割に)作中では色としての灰色が使われることはそこまで多くなくて、こういう色調で灰色感が表現されているようにも思う。
ちなみに同じ調整を白(#FFFFFF)にかけると、日焼けした古紙のような色になる。
この画像は少し露骨だけど、Aパート終わりのアイキャッチがこんな感じですね。なんだか古典っぽい。
光
#FFFFFFというはRGBという色の表し方で白を表す数値なのだけれど、これは名前の通り色を赤緑青の三要素に分けている。
上2桁が赤、中2桁が緑、下2桁が青で、それぞれが1~255のうちどのくらい配分されているかで色を測っているのだ。(FFなのは16進法だから)
RGBは絵の具の足し算ではない光の色の考え方なので、赤緑青すべてを足すと白(光)になって、すべてを引くと黒(暗闇)になるし、すべて真ん中にすると灰色(影)になる。
この「光」の概念であるところのRGBを基準にして考えると、色としての灰色よりも露出によって光量を落とす「影」の色調で灰色が表現されていることには納得がいくし、彩度に絡めると彼らの世界は影がかかっているだけで彩り自体は華やかであるとかそういう解釈もできる。
脱線なのだけれど、元の画像を
- 彩度高め
- コントラスト弱め
- ハイライト少し
- セピア少し
にカラー調整するとヴァイオレット・エヴァーガーデンぽくなったりする。
RGBといえばこういうところにも現れる(多分)。
下の画像は千反田が地学準備室に閉じ込められた謎について話す場面だ。
これらの文字の色で「不確定の状態」を表す灰色を真ん中にした場合、橙と紺碧はRとBの数値が逆方向に動く色なので(これはその通りの色ではないけれど)この色の配置になっているのは芸が細かいなーと思うし、RGBで色を読み解くことの根拠の一つになりうるのではないかとも思う。
千反田の色も気になるところ。寒色を使うことで千反田の論理的な側面を印象付けるとかかな。ただ、入部届けを渡すシーンでもシアン(水色)の効果がかかっているので「寒色」や「理知」といったイメージで固めるのも微妙な感じだ。
こういう風に見ればわかると思うが、色調というのは印象に直結しやすい分、テーマとも密接に関わっていたりする。無意識に雰囲気として掴んでいる情報を細分化することで得られるヒントは案外多いのかもしれない。
色の効果と配置
「虹色」
色と聞いて、何といってもまず一話で印象的なのはここだと思う。
記念すべき第一回目の「わたし気になります」。
色が多い。
虹色といえばいいのか、たくさんの色が散らばっている。
見た感じ、可視光線のスペクトラムではっきりしている色たちを基調にしてるっぽい。
RGBで表すならこう。
レッド・イエロー・グリーン・シアン・ブルー・マゼンタ。
割とこれらの色はアニメの中に散らばっていておそらくそれぞれに意図があるように思う。特には、先述した通り光なんてのがそうで、窓から差し込む光だとかは元ある背景色を明るくすればいいものをわざわざシーンによってこういう色から効果をかけていることが多い。
OPを見るとこれらの色が不断に散りばめられているのだけれど、それはそれで別の記事にできたらと考えている。
「緑と紫」
先ほど氷菓風にカラー調整したFree!の画像だが、更に色合いの調整を入れて緑調とピンク調にしてみたらどうなるか。
この色使いに既視感を覚える人は多いのではないかと思う。
一話の実際のシーンから例を出すとこうなる。
後ほど羅列するが、一話では緑調のシーンが多いように見受けられる。
じゃあこれらの緑調とピンク調が数値としてどういうものかというと、RGBで表すとこう。
(上のgifはカラー調整済みの白に上書きしているものなので少し異なる)
つまり、緑調は緑が優位でピンク長は赤と青が優位。
アバンタイトルの冒頭とAパートの終わりに登場する桜が頭に過ぎります。
では優位どころかぶっちぎるとどうなるかというとこう。
これは緑と紫(マゼンタ)だ。
当たり前だけれど、数値が見事に真逆を指している。
この色は、
ここで見たことがある。
ちょっとカラー見本が明るすぎるけれど、上記のカラー調整をかけるとちょうど良い感じになる。
*2
紫とピンクの違いは「緑」の要素が薄いか濃いかで、境界が曖昧だ。随所に桜が登場することも考慮すると、これは気に留めるべきポイントかもしれない。
里志の瞳の色は、摩耶花が出てくる二話以降で。
折木奉太郎と千反田えるの髪の色も近い色調の印象があるけれど、データとしての確信がないのでこれは頭の隅に置く程度にしたい。
ともあれ「白黒灰」というよりは「明暗」のような光から色を細分化していく考え方や、それに準ずる緑と紫の色が物語の中で対比的な象徴として扱われるというのはここら辺からプンプンにおってくる。
OPには光と影の効果も多いし、なんなら歌詞に「光も影もまだ遠くて」とか入ってることも関連しているのではないかと思う。
では、この緑とピンクの効果がかかるのはどういうシーンなのか。
これらは一話のAパートに登場するシーンだ。
1.
2.
3.
4.
5.
6.
7.
1, 2, 3, 5, 6, 7 が効果のかかっているカットだ。シーンの順番通りに並べている。
窓からの光が緑調の効果で描かれているけれど、光を浴びる対象は千反田だったり奉太郎だったりあやふやだ。なら緑調の効果がかかるカットの共通点は何かというと、千反田が奉太郎を見ていることではないかと思う。1と3は互いを見ているわけだけれど、4のカットでは効果がかかっていない。
対して6は千反田の顔が近づくシーンで、奉太郎にとっての印象的な場面だと言える。ここでは奉太郎が千反田を見ていると言える。
では、4と6の違いは何か。よく見ると4のカットの中央下にも桜が描かれていることがわかるが、光の効果として色が強調されるには至っていない(奉太郎の顎のあたりにうっすら?)。なら、これらの効果は「見ている」というよりは「意識している」ときに表れていると推察するのが適当なのではないだろうか。
では意識されているものの実態は何なのか。
これはネタバレになるけれど、二話以降や一話のBパートでは、キャラクターの目を通さないシーンでも色の効果が現れたりする。奉太郎が廊下を歩いているだけのシーンで木漏れ日が緑であったり、とかなのだけれど、だとしても一話のAパートという印象を大きく左右するシーンで連続的に示されたことは大きなヒントになるのではないだろうか。僕自身も観察的な視点で氷菓を全話見直したわけではないので、他の四色との関わり合いもあるだろうから緑と紫の対比だけで考えると危なそうでもあるし、これから二話三話と書き進めながら考えて行こうと思う。
ともあれ、とあるサイトでは緑と紫の抽象的イメージにこうある。
*5
とりあえず僕は、腕組んで訳知り顔で「なるほどー」ってやったのだけれど、全てとまではいかなくとも、奉太郎と千反田に当てはまるイメージは多いのではないだろうか。 神秘的というイメージは何となくしっくり来るけど、そういえば千反田の神秘的なイメージはどこから来るのだろうか。上品や高貴というのは深窓の令嬢であるという辺りだと思うけど、神秘的というとその他にもある気がする。追々、考えて行こう。
さて、ほぼAパートのみで一記事使ってしまった。しかも色だけで。
一話だから仕方ないかなー。
ということで、次の記事はBパートになるか、Aパートの他の要素になるか、未定です。
できる限り善処する可能性を前向きに検討する方針で考慮する感じで頑張りたいと思います。
氷菓あれこれ①:「ある古典部の」
※この記事シリーズにはネタバレがあります。
アニメ『氷菓』は名作だ。
どう名作なのか僕に聞かれても困る。どうあったって名作なのだと言い張るしかない。僕の解説能力では手に余るほどの名作なのだ、勘弁してほしい。テーマや思想も素晴らしいし、モチーフの使い方や散りばめ方だって何回観ても飽きない濃さを持って居る。
青春期にみられる、青春を「青春」と呼ぶことすら憚られるほどに多感な精神活動は、それが光輝であれ陰惨であれ、どのような色であっても、人の記憶へと印象的に焼きつくことが多いだろう。そこにある言葉にならない逡巡や決断、その他にもそれをはじめとする様々な(本当に様々な)活動を、氷菓という作品はとても秀逸に描いているように思う。
これが「ミステリ」であるということもすごくで、ミステリであってしまっては僕はもうお手上げだ。無論、SFや他のジャンルだってそうなのだが、なんらかのテーマを伝えようと様々な伝達手段を駆使するとき、そこにはある一定の「計算高さ」が必要になるのではないだろうか。良くできた設定のSF世界観であったり、良くできたキャラ設定であったり、作者が意図するにしろそうでないにしろ、計算はどこかに存在し続けるように思う。その中でもミステリというジャンルは「計算高さ」がむしろ一つの目的になる節がある。脳の回転が遅い僕はこれが苦手で仕方がないのだ。さらにその上でテーマの追求を元にモチーフを設置し、初心者を門前払いしないストーリーを構築するなどされてしまうと、お手上げもいいところなのだ。
エヴァンゲリオンや俺ガイルなんかは多少小難しいシーンがあるので、「ここが考えるシーンだぞ」というのが鑑賞者にとってわかりやすい。仮に思考力1の人が観ても3~4くらい返ってくると思う。では、氷菓はどうかというと思考力1の人が観ても1しか返ってこないだろうと思う。だけど、思考力10ある人が観てもちゃんと10返ってくるのだろうという感触を僕は覚えている。
未視聴の人がいたら是非是非観てみて欲しい。乃至読んでみて欲しい。
このアニメを観て何を感じるのか、そういう現在位置の確認のために僕は節あるごとに氷菓を観直したりしている。
どうしてこんなことを書いているかというと、つい先日知り合いから「氷菓の考察をやれ」などと言われたからなのだけれど、 これは前述の通り無理だ。
「(現段階の僕の感性と知識量では)できる理りが無い」と書いて無理と読むのだ。
ということで考察というよりは問題提起と仮説を中心に、なぁなぁにやって観たいと思う。里志のいう「データベース」に出来心の毛が生えたようなものだと思ってもらえたらいい。基本的には、専門的な知識がないと拾えない様な情報はなるべく取り上げずにggればすぐにヒットするような情報から気になったポイントを挙げて行こうと思う。なので、所謂「考察勢」と呼ばれる人にとっては自明な内容になってしまうだろうがそれは申し訳ない。
作品というのは多くの場合、鑑賞者がそれを観る時間よりも長い時間を費やされて作られている。鑑賞者が製作者の「時間」に寄り添おうとすれば、「鑑賞者の時間」だけから観るよりも多くの意図を掴むことができたりする。
例えば物語であるならば、(登場人物に感情移入したり)ストーリーをなぞるような見方は「鑑賞者の時間」だと言えるように思う。そこに「製作者が何をどう考えながら創作したか」を想像する見方が加われば、鑑賞という行為に彩が増すかもしれない。その入口として役に立てればいいなーという感じです。
差しあたっては、アニメ『氷菓』の最初の章であるところの『氷菓』のストーリーからはじめていきたい。ちなみに、僕はまだ古典部シリーズを全巻読破しておらず、今回は原作の文章を前提にしない基本アニメのみからの提起になっていることをご留意いただきたい。
すでに前置きで1000文字書いてしまった。言い訳しないと言葉を紡げない性分なので、申し開きのしようがない。
さて、ご存知の通りこのアニメは原作がそうであるようにストーリー内での事件にそっていくつかのパートに区切られている。
原作のタイトルからパートを区切ると、
- アニメ表題であるところの『氷菓』 についての物語が1話から5話で、
- 8話から11話が『愚者のエンドロール』、
- 12話から17話が『クドリャフカの順番』、
- 20話から22話に『遠回りする雛』があって(20話は確信がないが。)、
- 6、7、18、19話が閑話のようで重要な1話完結のストーリーになっている。
ここで迷うのが、どういう順序で、どの視点から、物語を読み解いていくかということだ。或る話に登場するモチーフやらなんちゃらの説明を、その話のうちで留めるのか、それともパートまで持っていくのか、はたまた全体まで引き上げるのかということなのだけれど、これについては諦めることにする。僕自身、再履修しながら書き進めていくことになるし、勿論全体でまとめて構図を分けてから作った方が理論整然としていて読みやすいだろうけれど「そんなことやっていられない」という一身上の都合でそれは無しだ。
基本的に1話ずつクローズアップしていくつもりではあるが、例えばX話のYがZのモチーフであるということの根拠にそれ以降の話から例を出さなければならなくなるかもしれなかったりして、これはどうしようか非常に迷っている。ということで、①から順に読み進めなければ(読み進めてさえ)ナンノコッチャな内容になると思うが、それは、なんというか、申し訳ないということで一つご勘弁を。
迂回をしてしまった。
『氷菓』 についてだ。
アニメ全話の中で『氷菓』のパートがどの話に当たるかというのは、サブタイトルの一覧を見ると非常にわかりやすい。
1話: 伝統ある古典部の再生
2話: 名誉ある古典部の活動
3話: 事情ある古典部の末裔
4話: 栄光ある古典部の昔日
5話: 歴史ある古典部の真実
という風に一貫したサブタイトルになっているからだ。
これを括ると、
「ある古典部の」
- 伝統/再生
- 名誉/活動
- 事情/末裔
- 栄光/昔日
- 歴史/真実
て感じになる。
これらの言葉には何か法則性がありそうな気がしてならないのだけれど、誰か思いついたら教えて欲しい。
ところでこれを見て思うのは、こんな抜き出しかたをすると補助動詞としての「ある(有る)」が「とある(或る)」みたいな連体詩に見えるなということで、わざわざここを残して他の部分を変則的にしているということは、そういう見方の可能性もありなのかなということをここに留めておく。つまり「〇〇ある古典部」だとこれは特徴付けられた特定の古典部であって英語ならTheがつく古典部になるわけだけれど、「或る古典部」ならばこれは「数ある古典部の中の一つ」ということになって彼ら古典部の存在は矮小化される。こうなると彼ら古典部が「主人公」であるのか、「ただの登場人物」であるのか、という二面性がサブタイトルに込められている、可能性もありますねーということだ。
ともあれ、ここで「氷菓」と「古典部」という二つの言葉が強調されていることは間違いないと見ていいだろう。タイトルと基本設定なのだから当然ではあるのだけれど、意識するという意味で、この強調を認めておくというのはやっといて損はない。
とりあえず、内容に触れないところで説明できるのはこのくらいかな。
次は1話「伝統ある古典部の再生」について、可能なら一記事でまとめたいと思っています。
インターネットと可塑性。
僕は、インターネット黎明期の人間ではない。
かと言って、インターネット黎明期の存在自体をそもそも知覚しないほどの普及期かと問われるとそこはそうでもない。牛丼裁判やとっとこ公太郎を楽しむ傍でキッズgooを開いたり、ハイポ作ってみたをyoutube転載で見ていたような世代だ。
よく黎明期の人が「インターネットが面白くなくなった」みたいなことを言ってたりするけど、そうなんだろうなーと思いつつ自分が流入の世代であることから「それもインターネットだなー」と思ったりもする。
これはインターネットに限った話ではないと思うのだけれど、黎明期の面白さというのは能動性の高い人間が集まることではないだろうか。ある程度自分で試行錯誤しなければ動けない世界には自分で試行錯誤できる人間が集まるわけで、その過程からルールや法則を把握することもできるだろうしそれらが共有できれば更に楽しいのだと思う。
それからPCが一般的に普及しスマホが生まれインターネットが身近になって、受動的なユーザーが流入してくるとそりゃ面白くもなくなるだろう。接続すればユーザーが受け身のままインスタントに消費できるコンテンツが増えていくわけで、必要な前提が見えなければ共有する前提(ルール/法則)は失われる。
ここまでは黎明期と普及期の話であまりインターネットの話とは言えないわけだけれど、ではインターネットにおいてこの移行期に削がれたものは何なのかというのを今回は考えてみる。
おそらく、インターネットで求められるのは善悪でも常識でもなく可塑性なんだよな。
— Kosuke Torii (@KosukeTorii) 2018年10月23日
結論を言えばこれだと思う。
「可塑性」、デジタル大辞泉にはこうある。
かそ‐せい【可塑性】
固体に外力を加えて変形させ、力を取り去ってももとに戻らない性質。塑性。
これは物理の言葉なのだけれど僕はインターネットに代入して、
「インターネット上で起きる物事に対して大きく反発/抵抗を起こさず己の解釈や行動によって柔軟に対応する能力」
と言い換えたりしている。
極端に言えばこういうことだ。 ↓
「お。いいツイートするな」と思ってフォローした人のふぁぼがヒラリークリントンのエロコラ画像ばかりだったとしても、「お。インターネットにはこういう人もいるなー」と心を揺らさず対処すること。
— Kosuke Torii (@KosukeTorii) 2018年10月7日
なぜそうなるのかと言うと、これはインターネットというプラットフォームの性質に関わっている、と勝手に考えている。
・インターネットには物理的な領土が明確には存在しない。
・デジタルデータの出現により、情報は質量保存の法則を突破した。
無論これは嘘だけれど、概念的には大まかにこんな感じだ。
その昔、一つの文字には一つの木簡が必要だったし、紙が発明されても一つの文字には一枚の紙が必要だった。もちろん今だって文字のデータにはUSBやHDDが必要だし、データを賄う電力のために他のリソースが必要になる。だけれど大きく違うのは、その文字が独立していて媒体から乖離している点だ。一つの文字データに紐づけられるのは一つの木簡でも一枚の紙でも一台のPCでも無いわけで、リソースの許す限り無限に同質のものをコピーして別のPCに転送できる(概念的には)。
そういう空間に人間が入ってくるわけだ。この場所は地球とは違う。そりゃサーバーが落ちればサイトも落ちたりするから地球から解放されたなんて言わないけれど、人間が活動する領域を創造し拡張できるという点において地球とは大きく異なっている。要するに領土という概念が根本的な意味を為しにくい。
「インターネットには明確な領土がない」というのがあって、領土が明確でなければultima ratioの行使が原理的に難しくなって法の概念が薄くならざるを得ないと思うのだけれど、インターネットに常識を絶対的に持ち込めると勘違いして憤慨してる人を見るとインターネットがやっているなーってなる。
— Kosuke Torii (@KosukeTorii) 2018年6月19日
そしてこんな感じになる。ここではまず「べき論」 より実際どうであるかという点からみて欲しいのだけれど、僕らの身体はまず殆どの場合どこかの領土に属さなければならずそこでいろんな権利を国家に握られることになる。人を殺せば裁かれるわけで、そのとき抵抗すれば国家の暴力装置(警察)は僕らの身体を手荒く拘束するだろう。僕らの身体は国の領土へと「一つの文字と一枚の紙」のように紐づいているわけだから、そこに力を行使することができるし、だからこそ本来無法地帯である地球に僕ら人間は国家なんていう大きな規模で秩序を構成できる。現実的には、「僕らの命が領土に紐づいているから法が力を持つ」という側面が必ずあるだろう。
ではインターネットにいる人間の精神はどうだろうか。彼らの精神は「一つの文字と一枚の紙」のように、何かに紐づいているだろうか。
確かにインターネットの人間も生身の肉体を持っているわけだから、突き詰めれば国の領土に紐づけることは可能かもしれない。しかし、その効力を内部の隅々に至って行き渡らせることは困難を極めるだろう。何せ場所が違うのだ。インターネットで起きることを毎度毎度、国家の領土(身体のある場所)へと引っ張り出さなければならない。こうなるとこれは間接的な効力であって直接的な効力とは言い難い。ほぼ無限に広がる空間での無法を現実へと引き摺り出すことは、現実の領土で発生する無法を追いかけることとは大きく異なっているはずだ。
これが何を意味するかというとインターネットという媒体が、国家や国土が存在しない想定の「人間は本来何をするにも自由である」という考えを非常に反映しやすいものであるということだ。(国家はその上で秩序のための合意として自由を制限するわけだが。)だからインターネットとリバタリアニズムは相性がいいのだろうという考え方もできるが、話が脱線するのでここでは割愛する。
さて、ここで黎明期の話に戻るが自分の意思で能動性を持ってインターネットに入ってきた人間の多くはその試行錯誤の中で上記のインターネットの性質に気付くだろう。乱雑なインターネットには多種多様な人間がいて、善悪論は必要性の前にしか問うことができず、その必要性を規定する権力がそこには無い。「嘘を見抜けなければ掲示板を利用するのは難しい」といったことをひろゆき氏が言っていたと思うが、これはそういうことなのではないかと僕は考えている。自由で、時に猥雑なインターネットを「利用する」には、一歩引いてみたり状況に合わせて柔軟に対応する力、つまり可塑性が必要なのだ。良くも悪くも変わったものをとりあえず面白がるというインターネットの文化も、ここに根ざしている気がしなくもない。
領土のないインターネットで領土争いをするのは、領土のある世界に身体を持つ人間の性なのか……
— Kosuke Torii (@KosukeTorii) 2018年10月7日
受動的にインターネットを利用する人たちはこの性質に気づけるだろうか。多くの場合気づけないのではないかと思う。彼らにとっての現実は領土のある世界であって、受動的に与えらるインターネットの世界はその延長線上だと考えるだろう。受動的であるというのは、すなわちそういうことだ。現に、多くの人が思い思いの常識や善悪論をインターネットで振りかざし争っている。災害が起きれば不謹慎狩りを始め、目につく人間には全方位の公正を求めて、飽くことを知らない。そうなってしまえば、インターネット黎明期の人間や能動的にインターネットを扱う人間からすればそりゃ面白くないだろうなーと思う。
しかしこれは黎明期が良くて現在が悪いという話ではなく、インターネットという媒体の構造のお話なので、僕なんかはそれらを含めて「インターネットだなー」と思ったりするわけだ。性質に対して自覚のない人間が使えばそりゃ混乱するし、自覚のある人間が使えばなんとなくの雰囲気は共有できるかもしれない、くらいの話。それはそれでインターネット。
無論、そういったインターネットの性質が領土のある現実へと及ぼす影響はあるだろう。それはそれはもうたっくさんあることだろう。先述した通り、これはべき論ではなくて「どうあるか」の話なので、社会や秩序を前提とした場合に影響が生み出すであろう問題とは完全に別なのである。これは勘違いしないで欲しい。問題についてはまた別の記事で書けたら書こうと思う。FakeNewsとか。あれこそ構造の話だと思うのだけれど、多くの人は犯人探しをやろうとしてる。そりゃFakeNewsのフリーライダーはいるだろうけどそれは根本的な解決じゃないでしょ、とか。
まぁでも、僕は飽くまで思弁的にやるのが心地良いので具体的なところは難しいけど。
こんな感じかな。
黎明期から普及期にかけてのインターネットで大きく削がれたように思える可塑性の話。
以上、「インターネットと可塑性。」でした。
では、また。
赤面逆上心理。
前に最初の記事を書いてから二週間ちょっとが過ぎてしまった。
実のところを言うと、ブログという媒体が苦手だと感じていて手をつけようと思えなかった。前回の記事に「書けそうだ」などと書いていながら何を言っているのだというところではあるのだが、そうは言っても、気が進まないのだから全くどうにもしようが無いわけで。
それでも、ブログを書いている知り合いが僕には複数人いて、彼らの存在はいくらかのモチベーションになるようである。
以前の記事に書いた、ブログという媒体に対する期待(この言葉は的確では無いかもしれないが)もあって、そういうモチベーションは不定期ではあるが確実に上がってくるみたいだ。
なので、今回はその「気が進まなかった」ということについて書いてみようと思う。
ここから先は完全に僕個人の性質に関する語り口なので共感してもらえるかわからない話になると思うのだけれど、僕は理論整然とした一貫性のエミュレートが非道く苦手だ。
これを言ってしまえばお仕舞いかもしれないけれど、言葉という媒体に対して大きなコンプレックスを抱いている。
おっと、唐突に抽象的なことを言ってしまった。これは良くない。
例えば、幼少期を思い起こしてほしい。
あなたは幼稚園にいたかもしれないし、若しくは保育所だったり、それ以外だったりするかもしれない。そこは、住宅街の真ん中だっただろうか、それとも少し拓けた土地の中にあっただろうか。僕の場合は、自然公園の青空保育だった。
くすの木を登り、クヌギ林を駆けて、草むらでカマキリを追い回した日々をよく憶えている。人によっては積み木だったかもしれないし、プラレールだったかもしれない。
あの頃のぼくは多くの言葉を知らなかった。多くの人がそうだったと思う。
「相対的概念を絶対的に捉えることによって言語化された思考プロセス」
なんて言ったって、てんでわかりゃしない。
ぼくらにとって「はっぱのみどり」は葉っぱの緑ではなかったし、「ゆうやけのあか」も夕焼けの赤ではなかった。
ぼくは、「僕」という一つの人格ですらなく、自由で奔放で際限のない一つの精神であったように思う。
あまり多くの言葉を知らなくて、それでも心の内には多くの感情が渦巻いていたはず。
いつから、 グラデーションの赤っぽい部分を切り取って「赤」と呼ぶようになったのだろうか。
なーんてポエティックに書き散らしてみたが、なんとなく伝わるだろうか。
色々な言葉を覚え、多くの人は言葉で感情を区別しているつもりで、言葉に感情を区別されるようになっていく。「自分自身」ですら、その例外では無い。言葉を口から出すということは、つまり総てを伝えることに対する諦めでもあって。それでも何かを伝えたいと思うとき、人は自分の無力を堪えて言葉を発するのだと、僕はそう思いたがっている節がある。
上記の、自由奔放な精神の世界を直接伝えられたらどれほどいいかと夢想するわけだが、そんなことが輪郭(言語や音、絵など)なしにできるはずもなく、閉口し沈黙する生活を送っている。そうこうして生まれてくる感情をパーっと吐き散らすには、やっぱり詩や短文が丁度良い。「輪郭のない世界」を前提にして何かを書くには、具体的なトピックは相性が悪いのだ。けだし輪郭のない観念には輪郭がなくて、凡そ総ての事柄がそれ以外の総ての事柄と関連づけられている(同時に離反している)のだから当然のことだ。
それで、ブログという媒体に対して苦手意識が生まれていた。生まれていたというか現在進行形で苦手かもしれない。例えば、「気が進まない」ということだってこれまでの文脈からすればグラデーションの一部でしかないわけだから、これを説明するためには書く場所であったり直前に食べたもの、その日の気分や僕自身の過去だったり…要約すると僕の人生総てから論を立てて説明しなければならないことになってやりきれない。無論、そんな事はできないので一つのトピックに合わせて主だった部分を抓んでいくのだが。ここで何を削るか、削った上でどのように論を成り立たせるかということが、どうしたって言い訳じみている気がして削ったはずのものを補填したくなる。
ブログは文章が長いというのもそこに一役買っている。一貫性というのが苦手で仕方がないのだ。一時期、厨二病よろしく小説でも書いてみるかなんて考えたことがあったが、文体を統一することにリソースを割きすぎて内容や構成が全然追いつかず断念している。
これは一貫性が苦手というより、一貫性のない状態を前提にしているからというのが適切なのだと思うが、だから言葉という一貫性を口から出すと「嘘をついている」という罪悪感に苛まれることになる。今だってそうだ。あとで恥ずかしくなるに違いない。これを赤面逆上と言います、憶えておきましょう。あとやっぱり、「公開する」ことによって意識される他者の存在も大きい。
大方、「気が進まなかった」理由はこんな感じだ。こうして言語化したことでスッキリもするし、こうして言語化したことでモヤモヤもする。
ともあれ、まぁ、そういう記事です。
以上、「赤面逆上心理。」でした。
では、また。
ことのあらまし。
まずは、ブログの用途を書いてみます。なんとなくですが。
ここまで書いてデスマス調に飽きたのでダ・デアル調に変えることにする。
ヘッダーに書いてある通りこのブログは備忘録として使うことになるわけだが、このビボウロクなる言葉はどうにも漠然としている。だけれども、どうやら備忘録にも色々あるのではということを最近モヤモヤと考えていたのでまずはそれを書いていこうと思う。
僕はFacebookもTwitterもnoteもGooglekeepもiText expressも基本的に全部備忘録として使っていて、それぞれのプラットフォームに気分で書き分けている。考えたことをFacebookに投稿したり、溜まった鬱憤をnoteに投げてみたり、知り合いの美大生に勧められて書いてしまった文章だか詩だかわからないものをフォルダに溜めたりし続けていると、特段明確な線引きをしているわけではないのだが徐々にそのプラットフォームごとの(僕にとっての)性格が現れてくるような感じを覚える。
それらの差異を数ヶ月前に "Personality Insights" なるもので検証してみたら案の定、結果が出た。
これは、テキストデータから単語の傾向などを洗い出して筆者の性格的特徴を分析するやつなのだけれど、Facebook・Twitter・PCフォルダの文章をそれぞれ別々にインプットして比較すると少しずつ分析結果が違っていたと。
僕の結果は、並び方がおおおよそ "Facebook—Twitter—PCフォルダの文章"の順になっていて、右に行くほど "自己超越欲求" や "協調性" などの感情的な要素が強くなり、左に行くほど "達成追及" や "秩序性" などの自己意識的な要素が強まるという、お笑いなグラデーションだった。
無論Facebookをオフィシャルな交友関係の場としても使っていることを考えれば当然の帰結でもあるわけだが。
ともあれ、それぞれの特質が過度に競合しているようには思わなかった。
ツイッタではfbより感情的になりやすいなどという無の現実はどうあれ、要するにここで言いたいのは、いつ・どこで・どういう風(感情, 思考, 環境, etc) に備忘録を記すかというのが、それぞれ鏡のような役割を果たしてプラットフォームに現れるのではないかということだ。
(以上の段はなんとなく感じていたことをたったいま言語化したので自分でも「へー」となっており、もしかしたらブログはそういう備忘録になるのかもしれない)
というわけでブログを何に使うかは明確ではないが、何のために使うかと言えばそういうプラットフォームの一つとして開拓できたらという感じ…な気がする。
この考えは備忘録に記すポッと出のものなので信憑性は薄い。プライマリーソースを漁ったわけではないし、論文を読み込んだわけでもない。ここまで書いたことは僕の頭の中の出来事で、簡単に言えば妄想だと思う。
基本的に備忘録はそんな感じで、だから具体的な 、世間的な物事についてこのブログに書くことはないように感じるが、そういうことについては後々別の記事で書けたら書こうと思う。
こうやって書いていると何だか落ち着くので次の記事もちゃんと書いてみようかしらという気にはなっている。
なんか、良い書き方とか、これおかしいぞーみたいなことがあったら教えてもらえると嬉しい。
さて、ブログ記事の締めくくりってどう書けばいいんだろう。
以上、「ことのあらまし。」でした。
お。ラストはデスマス調がしっくりくるな。
ブログをはじめ……
こーすけです。
ブログを書こうと思います。
さしあたり様式美ぽくそう言ってはみましたが、どういう方向に何を書くかなど全く展望はありません。
当たり前の話ですが書けることしか書けないと思うので、とりあえずは書けることを書いてみることになると思います。
どうぞよしなに。